暑いですね〜。
ここしばらくは本業(出版事業)が大忙しでして、猟師業は休止中。
隣町の農家さんをはじめ、せっかくいただいたSOSに対応しきれておらず、本当に申し訳ない限りです。
そんな状況下であっても、「アライグマ」の被害防除活動には定期的に出動しています。
これは、地域住民の方々が仕掛けた箱罠にかかったアライグマを回収し、処分する委託業務を弊社が受けているためです。
さて、捕獲したアライグマは、箱罠ごと水に沈めて止め刺しを行うわけですが、以前、雑誌の担当編集者からこんな理由で原稿をボツにされたことがあります。
曰く、
「水に沈めて殺すのは人道的ではない。炭酸ガスによる窒息死に内容を書き直すように」と。
この要求を聞いたとき、私は「それは原稿の不備ではなく、個人の『宗教観』を押し付けてるだけでは?」と強い違和感を抱きました。
ちょうど最近、13世紀のイスラム世界とモンゴル帝国を題材にしたアニメ『天幕のジャードゥーガル』を見ていました。
その中で、「イスラム教徒はヤギの頚動脈を切って血を抜きながら仕留めるが、モンゴル人は腹を割いて大動脈を直接手で握り潰して仕留める」という、文化的な違いを描いたシーンがありました。
この中で、イスラム教徒の主人公は「首を切らずに殺すなんて野蛮だ!」と疑念を抱くのですが、モンゴル人側からしたら、「聖なる大地を血で汚すとは何事だ!」と意見が対立します。
私が体験した「水死はNG。でもガスならOK」という編集者の主張も、これとまったく同じ構造です。
ただ、私はこうした「価値観の違い」を否定したいわけではありません。
私が憂慮しているのは、現代の日本の狩猟界には、こういった意見に向き合い、自身の言葉で語るための「哲学」があまりにも足りていないことです。
世間から「なぜ狩猟で動物の命を奪っているのか?」と問われたとき、胸を張って自身の「哲学」を語れる猟師がどれほどいるでしょうか。
現在の猟師の多くはこういった質問に対して、
「じゃあ、あなたは肉を食べないんですか?」
という的外れな逆質問や、
「農家が害獣被害で困っているから」
という理屈を持ち出して、ケムに巻くしかできていないのが現状です
この質問に対しては、「動物を殺して良い法律」や「科学的な見解」を述べても意味がありません。
なぜあなたが「動物を殺して良いと思っているのか」という「哲学」が問われているのです。
ドン引きされると思いますが、私は生きているうちに「宗教」を打ち立てることを目標にしています。
こう言うと「カルト教団でも作る気か!」と警戒されるかもしれませんが、そうではありません。
私が作りたいのは、今後日本で狩猟を行う人が先のような問いを投げかけられたとき、自分なりの考えを組み立てるための「哲学体系」を残したいのです。
その人が私の作った思想を引用し、
「〇〇という考え方がある。だから私はそれを信じている」
でもいいですし、
「〇〇という考え方がある。でも私の考えはこれとは違う」
でも、どちらでも良いのです。
宗教とは、人の思考や生き方における「基準点」です。
答えがない「命を奪う」という行為だからこそ、そうした考え方のものさしが必要だと思っています。




